間違えられた男

「オイ、尻さわってんじゃねえよ」

つり革につかまって電車に揺られていたギョクレンのうしろで男の声がした。混雑していた車内の乗客は声のあがった方向へいっせいに注目する。

声の主は50代とおぼしき男性で、首をひねってすぐ後ろに立つ若い男をにらみつけていた。

「さわってません」

注意された若い男は不快感をあらわにして否定した。

ギョクレンはじめヤジウマ連中は、自分のスマホに目を落とすそぶりをみせながらも、事のなりゆきをしっかりと見守っていた。男性の正義感が犯罪を見のがさなかったのか、はたまた若い男がいわれない疑いをかけられているだけなのだろうか・・・

しかし、事態を冷静に見守ることができるにつれて、ギョクレンはおかしなことに気がついた。この場にひとつ足りないものがある。

視線のさきで事をおこしているのは、注意の声をあげた男性と、すぐ後ろに立つ若い男だけである。そこには被害者の女性がいなかった。もしかしたらショックのあまり離れたところへ避難しているとも考えられたのだが、周囲に目をこらしても当事者らしき女性のすがたはない。

「さわってんだろうよ」

男性は相も変わらず憤怒にみちた形相で若い男にくってかかっている。ギョクレンはなにかいやな予感がした。

「きもちわりいんだよ」

男性はそういってからだをかすかにくねらせた。その動きと言葉ですべてをさとった乗客たちのあいだにとまどいが走る。ふたりのほかには当事者などいなかったのである。

「こっちだってべつに、さわりたくてさわってるわけじゃないです」

迷惑そうな表情で若い男は必死に否定する。そりゃそうである。どうみたって相手の尻に興味をもつとは思えない。しかし、被害者?は、なおも被害者たらんとして相手につめよった。

「さわってんじゃねえかよ」

「両手で荷物を持っててうごかせないんです。さわりたいわけないでしょう」

負けじと声を荒げて反論する若者。

さわりたいわけないでしょう・・・その言葉を聞いて、きっと乗客の大半は心の中で大きくうなずいたはずである。

そうこうしているうちに、電車は次の駅へと到着した。男性はこの駅で下車するようで人の流れに乗じて体を反転させる。若者と顔がむきあった瞬間、最後のすてゼリフを吐いた。

「だったらな、さいしょっから、手をわきにずらしとけよ」

男性のいなくなった車内では、両手に大きな紙袋をさげた若者が、羞恥と憤怒で顔をまっかに染めあげて揺られていた。

若者に同情しながらも、どうしてもこっけいに見えてしまうのを気の毒に感じた乗客は、注目しないことがせめてものなぐさめとばかりに、ふたたび自分のスマホへと帰っていくのであった。