「だいじょうぶですか」
ひとまずじいさんを助け起こし、ついでに自転車をもとにもどしてスタンドを立てると、興奮しているギョクレンは、すぐにへびのほうを指さしてじいさんに知らせようとする。
「ちょっと、あれ見てください」
ところが、へびならまだしも朝から人が自分の目の前に飛び出してきたものだから、じいさんショックが大きすぎてそれどころではない様子である。
「へびですよ。アオダイショウ。このへんにもいるんですね」
ギョクレンはじいさんをなんとか正気に返して塀のほうを注目させようと骨を折るが、相手は依然目をまるくしたままひと言も発しようとしなかった。
「いや、おれはあのへびにびっくりしてぶつかっちゃったんですよ」
このおどろきを共感してもらおうとギョクレンはもういちどへびの姿を確認する。
「あれ!」
こんどはギョクレンが目をまるくしてすっとんきょうな声をあげた。
見つめる先にあったのは、塀のすきまから出ているただのゴムホースなのである。
「へびじゃない!」
ギョクレンは塀のすき間まで歩いていって顔を近づけるが、そこにあるのはまぎれもないホースであった。
すると、背後で自転車のスタンドを蹴り上げる音がした。振りかえった先では、じいさんがいそいそと自転車にまたがっている。ギョクレンは声をかけようとしたが、相手はそのひまさえ与えてくれずに、猛烈ないきおいでペダルを踏み込み逃げるように去っていってしまった。
あぜんとしたままじいさんのせなかを見送るギョクレン。ふたたび振りかえった先にあるゴムホースを視線にいれたまま、しばらく途方にくれていた。
自分が見たのは決してゴムホースではなく、まぎれもなくへびであった。
ギョクレンは目の前の現象をいまだ信じることができない。自分の見まちがいではないとすれば……
ねこは毎日見ていたのだが、まさかたぬきに化かされようとは、ギョクレンは思ってもみなかった。しかし、原生林ともいうべきうっそうとした森が広がっている塀の向こうにはたぬきの一匹や二匹きっと住んでいるだろう。
「人が人を化かして平気でいる社会なのだから、たぬきが人を化かしていてもそう不思議なことではないのだろう」
ギョクレンは納得してようやく足を動かして路地をあとにした。
数日後、おなじ路地を歩いていたギョクレンは、道の真ん中に大きなへびの抜け殻があるのを見つけたのだが、立ち止まることなく路地を通り過ぎるのであった。
(完)