清川村温泉記(下)

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ギョクレンはもうすでに勘付いていた。自分が紹介したい温泉は、ここではない。いや、そもそもこの付近のものではないことを。
山道なんてものはどこも似たり寄ったりなので、どこかほかの場所と勘ちがいしていたのである。そう、あれはたしか、金峰温泉だった。

「あの、日帰り入浴ってまだできますか」
備井君は仲居さんにたずねる。

「えっ、あっ、はい。大丈夫ですよ。でも・・・」
仲居さんは振り返ってロビーの奥に見える中庭に目をやった。

「あいにく、日帰りは露天のみのご利用となりますけど」

「雨だとやっぱりつらいですか」
備井君は仲居さんの言いたいことを代弁する。

「ええ、露天ですから、やはり・・・。もし、内湯がお望みでしたら、この先をほんの少し下ったところに七沢温泉がありますから、そこなら日帰りで入浴できると思いますよ。うちはここ一軒ですけれど、七沢さんは規模が大きいですので」

「ギョクレンさん。どうでしょう」

江井君のささやきに、ギョクレンはどう答えたものか頭をなやませる。

このまま下っていってもお目当ての温泉に出会える見込みは皆無である。あれだけ大見得をきっておいて、いまさら間違いでしたでは面目がたたない。

なによりも温泉じたいが「ここに行こう」から「ここでいいか」になってしまう。
これは温泉の質うんぬんの問題ではない。気持ちの問題である。
そんな気持ちでみんなにお風呂に入って欲しくはない。

ギョクレンは仲居さんとおなじように中庭に目をやった。

しとしと降り続く雨模様。古刹の裏に湧き上がる湯けむり。まるでお侍さんの湯治のようなシチュエーションではないか。ギョクレンは決心した。停滞した空気を吹き飛ばすにはここしかない。

「こちらでも入れるんですよね」

「ええ、いちおう屋根はついていますから。いま先客で入っておられる方もいますし」

仲居さんの返答には、さきほどからずっととまどいの色がみえる。

「じゃあ、ここにしませんか。なんかおもしろそうじゃないですか。入っているうちにあったまりますよね」

「はい。しばらく入っていれば温まるかと」

ほかの二人も異存はなく同意したので、かさをさして中庭をとおり、離れの露天へむかう。
身体はすっかりと冷え切っているが、とびらの先の、もうもうとたちこめる湯けむりはすぐそこである。

期待をこめてとびらを開けた瞬間、三人の前にすっ裸の男が駆け込んできた。

「うう、さむい」

耳を疑うような言葉が一行に届けられた。

「さむいんですか」

「ああ、さむいぞ。ほれ、雨でぬるくなってるからな」

あわただしくタオルを手にした男は風呂場をあごでしゃくる。

屋根といっても中央にこじんまりと設置されているだけで、両脇からは冷たい雨が湯面にはねていた。つづいて、また男が二人、身体をふるわせて脱衣所にかけこんでくる。

「あんたら、どっからきたの」

「東京です」

「東京!こんなとこまでわざわざ!ものずきだなあ。まあ、冷てえけど、お湯はいいからよ。すべすべになるぞ」

男たちは衣服を着込むと「帰ってあったまんべ」と言いながら出て行ってしまった。

岩風呂に降りこむ雨をみて放心する一行。湯けむりなんてものは線香一本ほども立ってはいなかった。

けっしてものずきなんかではない。ただ、ほんの少し、ずれただけ。ボタンを掛け違えたようなものなのである。

いや、待てよ。じいさんといえば、熱いお湯が好きなものである。だから、あのぬるいは、私たちにとっては適温なのではないか・・・

一縷の望みに心をふるいたたせて、湯船へと足を踏み入れるギョクレン。

だが、足先がぬるま湯にふれた瞬間に、その望みもはかなくしぼんでいくのであった。

(終)