いつもとちがう朝を迎えた男の話

ある朝いつものように目覚めたとばかり思い込んでいた男がいた。

朝日は昨日と変わらずに窓から射しこんでいたし、体を包み込む布団のぬくもりも馴染みのものである。だが、窓際の時計に目をやった瞬間に、まどろみは一気に吹き飛んでしまった。時計の針が、とっくに電車に乗っている時刻を指していたのである。

男はいちど時計から目をそらした。

まれに寝ぼけて時計の針を見まちがえることがあるじゃないか。今日だってきっとそうに違いない。

「さあ、時計よ、戻りなさい」

男はそう念じたあとにふたたび顔を転じてみた。だが、すました表情で時を刻んでいる時計と対面し、期待ははかなくも消え去った。

いったい自分の身に何が起こったのだろうか。男は寝坊した現実を容易に受け入れることができず、布団に収まったまま頭を必死に回転させていた。

いくら考えようが、時間は無情に過ぎていき、状況はますます悪くなる一方である。いっそのこと、おなかが痛くなったと嘘をついて、休んでしまいたかった。だが、ずる休みをしたところでどうなるのだろうか。観念した男は大急ぎで飛び起きると、普段からは考えられないスピードで支度をすませ、いきおいよく玄関を飛び出した。

エレベータが5階にくるのをもどかしく待ちながら、男は頭の中で遅刻の言い訳を次々に浮かべていた。
遠くの空には雪をかぶった富士山が澄んだ空気に映えていた。しかし、寝坊の処理に精一杯の男にあっては、せっかくの雄大な景色も用無しであった。

 ようやくエレベータが到着し、男は勢いよく乗り込んだ。ところが、勢い余って指先がそれていき、2階のボタンを押してしまったのである。

よりにもよって、こんな急いでいる日にミスを犯すとは・・・。なんの用もない階が光っているさまを、男はいまいましく目に入れていた。だが、いまさら訂正することもできないので、続けて1階のボタンを押してとびらが閉まるのを待っていた。

(つづく)