おはなし

いつもとちがう朝を迎えた男の話(2)

動き出したエレベータはすぐに4階で停止して、一人の女が乗り込んできた。とびらが閉まるのを待ちきれない様子で体を小刻みに動かしており、相当に急いでいることがうかがい知れた。 いっぽう男は、女の後頭部にじっと目をすえて動揺で体をふるわせていた。…

いつもとちがう朝を迎えた男の話

ある朝いつものように目覚めたとばかり思い込んでいた男がいた。 朝日は昨日と変わらずに窓から射しこんでいたし、体を包み込む布団のぬくもりも馴染みのものである。だが、窓際の時計に目をやった瞬間に、まどろみは一気に吹き飛んでしまった。時計の針が、…

レジでのあやまち(2)

(前回のおはなし) 198円を3割引すると、おおよそ60円ほど安くなる。たかが60円。もしもお店を出た後に気がついたのなら、わざわざ引き返すことはしないであろう。しかもこの男は新入りである。慣れないうちはミスもあるのだから、大目に見てやってよいでは…

レジでのあやまち

行きつけの商店で買物をしていたギョクレンは、最後に通りかかった菓子パンコーナーで足を止めた。棚の上には「切り出しカステラ」という商品が二つ並んでいる。ギョクレンの視線は、パッケージの隅に貼られた「3割引」のシールを逃さずとらえていた。 この…

漂流

休日の昼過ぎにベランダに立って空を見ていたら、遠くに飛行船が浮かんでいる。東京の空に悠々とただようこの物体を目にしたときに私の脳裏に浮かんだのは、レッド・ツエッペリンのアルバムジャケットでもなく、サマーソニックに来たロバート・プラントでも…

まかない(2)

(前回のおはなし) 「パスタどうでしたか?」 私はマスターの方へ顔を向け、おいしいと答える。 「これは私のアレンジでコリアンダーとナンプラーを混ぜているんですよ」 そう話すマスターの瞳からは、心の底から料理が好きだという感情がにじみ出ている。 …

まかない

閉店間際のカレー屋のカウンターには、私のほかにお客はいなかった。メニューを手にして悩んでいると、奥から声が聞こえてくる。 「どうする? もう切り上げてもいいんだよ」 「いえ・・・大丈夫です・・・」 顔をあげると、インド人のマスターと中国人らし…

路上ライブ(2)

(前回のお話) 「お、おれだって、金もってないんだよ」 私の耳に切実な叫びが届いた。 声の方角に目をやると、女子高生のすぐそばに、腰の引けた中年サラリーマンが立っていた。そのサラリーマンと向き合うようにして、一人のバンドメンバーがとまどいの表…

路上ライブ(1)

下北沢の改札口を抜けると、通りから小気味の良い音楽が聞こえてきた。 音のほうへ目を向けると四人組のバンドが路上で演奏を披露している。ジャズをベースにしたグルーヴィーな演奏は、通りの注意を惹きつけるには十分な腕前で、すでに大きな聴衆の輪が四人…

他人の目が気になる男のお話(3)

(前回のお話はこちら) 車がきれいになっても、ギョクレンの心中はなんだかくもったままであった。 「おほっ、デラックスコーティングをお選びですか・・・」 店員にとっては、最高グレードのコースを選んだことへの賛辞であったのかもしれない。だが、ギョ…

他人の目が気になる男のお話(2)

(前回のおはなしはこちら) 「お待たせいたしました」 よほど急いで戻ってきたのであろう。店員はぜいぜい息を切らしている。 「わたくし、たった今、上司と掛け合いまして、お客さま限定で、ナント、2枚で4000円のサービスが可能となりました。通常一枚300…

他人の目が気になる男のお話

セルフ式のスタンドでガソリンを入れていたギョクレンは、ノズルを握りなんとなしに周囲を見渡していた。夜も遅いスタンドには、ほかに客の姿はない。と、敷地の隅にある洗車機が目に入ったので、洗車でもしてみようかと思いたった。 窓から身を乗り出して、…

激安レンタル(その3)

(前回のお話はこちら) お金をはらって、サイズを告げても、はいどうぞというわけにはいかなかった。店員はギョクレンたちのことなどほったらかしである。「ハイ、じゃあこちら。サイズどうですか。きつかったら言ってくださいね」 ちょうど先客の家族づれ…

激安レンタル(その2)

(前回のお話はこちら) 積もった雪に足を取られないよう慎重を期しながらも、ギョクレンの心中には、ある別の心配が支配していた。さっきのばあさんの態度は、もはやお願いなんかではない。命令である。命令だとするならば、とうぜん権威が必要になってくる…

激安レンタル

正月にスキーへ行ったギョクレンは、苗場にある「こしじや」という馴染みの宿に宿泊した。道具はレンタルすることになったのだが、細君はスノボをしたいとのことである。 もちろんこしじやにはスノボなんてものは置いていない。(理由が知りたければ、いちど…

一人だけ料理がこないとき(後編)

(前編を読む) さいしょに英君が注文する。店員さんは伝票に記入する。つぎにギョクレンが「坦々麺」と口に出した。 と、その瞬間、店員さんの鉛筆が伝票の上を走るのを待たずして、尾位君が続けて自分の注文を口にしてしまったのである。 なんてことないの…

一人だけ料理がこないとき(前編)

「ギョクレンさんの遅いですね」むかいの席の英さんはピーマンと牛肉の細切り炒めをつまんだ手をとめて、顔をあげた。横にすわる尾位さんも、不安げな顔つきで厨房に目をやっている。 「そのうちきますよ。どうぞ、食べててください」 ギョクレンは平然と言…

清川村温泉記(下)

(中)を読む ギョクレンはもうすでに勘付いていた。自分が紹介したい温泉は、ここではない。いや、そもそもこの付近のものではないことを。山道なんてものはどこも似たり寄ったりなので、どこかほかの場所と勘ちがいしていたのである。そう、あれはたしか、…

清川村温泉記(中)

(上)を読む ダムの向こう側の岸辺は、先日の台風のせいなのか一部が崩落しており、道路もガードレールも水面すれすれまでひん曲がっている。自然の威力の前には人間の力なんぞとるに足らないものなんだと、見せつけられているようである。 車はダムを過ぎ…

清川村温泉記(上)

宮ヶ瀬ダムの湖畔に車を停めたころには、重たい雲の裏側から宵の気配がただよい始めていた。朝から続く雨の勢いはいっこうおさまることなく、ひっきりなしに湖面に波紋をきざんでいる。さっきからギョクレンの身体にも、傘のとどかないところめがけて雨が打…

ギョクレンのあまちゃん3

(前回のおはなしはこちらから) また因縁でもつけられたら大変なので、顔を見られないよう露店からそむけて素通りを試みるギョクレン。 だが、むだであった。相手は海の中で獲物を見つけることをなりわいとしている海女さんである。女性ばかりの参道の中で…

ギョクレンのあまちゃん2

(前回のおはなしはこちら) 神社は海女資料館のわきから坂道をのぼったところにある。すでに坂道には多くの参拝者の姿があった。ほかの観光客にまじって歩いていると、とつぜん横から呼びとめるものがいる。 「男三人で行ってどうすんだ」 声のほうを向くと…

ギョクレンのあまちゃん

お伊勢参りに出かけたギョクレンは、旅の途中で相差(おおさつ)という名の港町に宿泊した。どうしてこの町に宿をとったのか、ギョクレンは忘れてしまった。おそらく伊勢海老が食べたかったくらいの理由であろう。相差については、まったく下調べをしていな…

超怖い話ガム

山あいのコンビニエンスストアにはいった一行は、店内中央に位置する陳列棚のなかに奇妙なガムの存在をみとめた。それほど目立つ場所ではなかったのに、目にとまったのは奇縁であろうか。おどろおどろしい日本人形がうつるパッケージに書かれた文字に一行の…

間違えられた男

「オイ、尻さわってんじゃねえよ」 つり革につかまって電車に揺られていたギョクレンのうしろで男の声がした。混雑していた車内の乗客は声のあがった方向へいっせいに注目する。 声の主は50代とおぼしき男性で、首をひねってすぐ後ろに立つ若い男をにらみつ…

護国寺たぬきに化かされる(2)

(前回のおはなしはこちら) 「だいじょうぶですか」 ひとまずじいさんを助け起こし、ついでに自転車をもとにもどしてスタンドを立てると、興奮しているギョクレンは、すぐにへびのほうを指さしてじいさんに知らせようとする。 「ちょっと、あれ見てください…

護国寺たぬきに化かされる

護国寺にねこが何匹か住んでいることは知っていたので、ギョクレンはいつも前をとおるたびにねこの姿をさがしている。護国寺のねこはひとなつっこいので、ときたま道行く人が体をなでてやっているが、ギョクレンはまださわったことはなかった。 ある日の雨上…

大脱走と・・・(3)

(前回のおはなしはこちらから) 「これって・・・」 ギョクレンは続きをしぼり出すことができずに相手に助けをもとめる。 「ねっ、いるでしょ。マックィーンとブロンソン」 同僚はそんなとまどいなど意にも介さず、うれしそうに説明した。 「ええ」 そう返…

大脱走と・・・(2)

(前回のおはなしはこちら) 「ギョクレンさん、『キューブリック』で大脱走でてるの知ってますか」 「なに言ってるんですか。大脱走は、スタージェスじゃないですか」 「いや、そっちのキューブリックじゃなくて・・・」 そっちのキューブリックじゃなけれ…

大脱走と・・・

押入れのなかを整理していたギョクレンは、いちばん奥に置かれていたひとつの紙袋の存在に目をとめた。袋を見ただけでは中身はいったいなんなのか、見当もつかない。 自分でしまったくせに見当がつかないなんて、どうせたいしたことはないのだろう。しかし、…